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平常時こそ「平常心」でいる

外出自粛の影響で外にも出られず、家にこもる日が多い。

普段は筋トレや運動をするために外出するけどそれもできない。ジムで筋トレしたい…

 

4月から会社の研修で東京で一人暮らしをしている。東京は今、閑散としている。楽しみだった一人暮らしだけど、どこか心の底から楽しめていない。外出ができないが家で瞑想や室内筋トレをして心と体の健康を保っているが、やはりせっかくの東京だからおいしいご飯屋さんに行きたい気持ちはある。

 

と、言っても、どこのご飯屋さんも空いていないから外出しても意味がない。だから結局おうちごはんを充実させることに全集中力をを使う。これはこれで悪くない。むしろこっちの方が気づきが多くていいのかも。自分の料理店を出していることなんかを想像するともはや家から出たくない。

 

こういった非常時の時でも、何気ない事に喜びや楽しみを見出せる状態であるということは本当に幸せなことだと思う。振り返ってみると自分は非常時であろうと、平常時であろうと常に「平常心」であることが多い。瞬間的な感情の振れ幅はあるがすぐに一定に戻る。

 

私がここでいう「平常心」という言葉は普段政治家さんなどが使う「ヘイジョウシン」ではなく、禅語の意味の「平常心」。「ビョウジョウシン」という意味。

 

 

自分と向き合う「平常心」

「心を保つために必要な心構えは?」という質問に対して、よく日常生活で聞く言葉が平常心。この平常心という言葉は、「何が起こってもうろたえず、いつも通りのぶれない心でいる」というようなものをイメージする人が多いと思う。

 

ただ、同じ平常心でも全く別の意味を持つ言葉もある。禅語としての「平常心(ビョウジョウシン)」とは「全く動じない」「心がぶれない」「いつも通り」ということではない。「ビョウジョウシン」とは自分の心に素直であるということ。楽しい時は楽しいままに、悲しい時は悲しいままに、ありのままの心でいるということ。具体的には、

 

  • 自分の頭の中で作り事をしない。
  • 良し悪しの判断をしない。
  • 凡人と秀才の区別をしない

など。

 

ここで大事なことは「平常心=いつも通りの心」であるという意味ではないということ。そもそもいつも通りってなんだ??いつも通りとは、自分の頭の中で生み出した作り事でしかない。

 

誤解がないように言っておくと、普段使っている「平常心でいる」という言葉を否定しているわけではない。伝えたいことは、禅語の「平常心」の意味を知り、自分のライフスタイルに取り入れ平常心の使い分けをしよう!ということだ。これができれば今の緊急事態にもこれから起こる変動性の大きい時代も乗り越えていける。

 

普段の平常心はどちらかと言うと「非常時に平常時の心を保てるように自分い正常性のバイアスをかける」というような感じ。だから、どうしようもない突発的な緊急事態に陥った時などはこういう平常心の保ち方は必要だと思う。ただ、これは自分に正常性バイアスをかけるということなのでこれを続けると、物事を都合よく見たり、見たくないものを見ないようにしたりしてしまうようになりがち。私自身も今でもなる。

 

禅語の「平常心」は「平常時の時から目まぐるしく変化する一瞬一瞬をありのままに捉えて、非常時のように生きる、バイアスをかけない姿勢」みたいな感じ。つまりは、作り事をせず、物事の是非を判断せず、ありのままを受け入れるということ。

 

イメージすることは難しいかもしれない。しかし、これが頭で理解できることができれば大きな一歩となる。そして、自分で体現できる瞬間がつかめればそのまま続けるだけ。

 

私は、基本的に禅語で使われる「平常心」でいつも生きている。これは大学3回生から続けていること。大学が仏教系の大学だったということもあり、そういうことにはある程度理解があった。

 

「平常心」は自分をより良いほうに導いてくれる。ベースは「平常心」。突然の突風が吹いてきた時には平常心。でもすぐに「平常心」へと戻る。そんな生き方を多くの人ができるようになるには自分が「平常心」を体現していく事が第一歩なんだと。

 

今度は「平常心」を保つために何をしているかを書いていこうと思います。では、また。